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水への想い (2006/12/22)
初めて見た海がお台場の海、
岩がたくさんあったのを記憶してる
山田 美佐尾さん(さいたま市在住)
 東京・お台場の海は昔、海水浴ができたといわれる。が、それがいつの時代のことであるのか、そして当時のお台場の海はどんな状態だったのか、知る人は今や少ないのではないだろうか。東京・品川生まれ、現在はさいたま市在住の山田美佐尾さん(73歳)は、そんなお台場の海に直接触れたことのある体験者だ。山田さんが初めて見た海は太平洋戦争直前の、岩だらけのお台場の海だった。姉と一緒に行ったその体験から泳ぎが好きになり、その後24年間、水泳教室で子どもたちに泳ぎを教えてきた。そんな山田さんに、お台場をはじめとした昔日の、東京の水に関わる思い出を伺った。


目黒川からポンポン船に乗って

 私は昭和7年生まれで、14年に小学校に入ったの。16年に戦争が始まったでしょ。8歳年上の3番目の姉が、目黒川からポンポン船に乗ってお台場に連れてってくれたのは、その前後、小学校の2、3年の頃ですよ。
 大崎橋って知ってる? JR五反田駅を下りて10分くらい歩いたところ。道路の脇に道があって、その道を歩いていくと階段があったの。その階段を下りると、コンクリートの狭い道があってね。そこから品川沖に向かう船に乗ったんですよ。
 船がポンポン言うのは記憶してるから、蒸気船じゃないかと思うんです。夏の間だけ船が出てて。何人くらい乗れたのかしら?って姉に聞いたら、10人から15人の範囲だって。だから、そんなに大きくない。屋根もないし……。
 私は兄弟が多いの、8人。私が一番下で、3番目のこの姉がよく泳ぎに連れてってくれたんですよ。姉は泳ぎが好きで、大会なんか出てたんです。だから泳ぎについては自信があったんだろうし、小さい私たちを連れてっても大丈夫だと思ってたんでしょうね。お台場には2、3回連れてってくれたの。
 ポンポン船で近所の子どもたちに会ったっていう記憶はないですね。大人が多かったかな。まぁ、子どももいましたけど、知ってる子どもっていうのはいなかった。当時、本当に泳ぎが達者って人は多くなかったんじゃないかしら。
 その頃ね、いわゆる水上生活者がいたんですよ。そういう人たちは、汚穢船って知ってる?、そういう船で生活していたんじゃないかしらねぇ。私は品川区の御殿山小学校にいたんですけど、クラスにもそういう子がいたんですよ。その子が住んでる船を何回か見に行かせてもらったけど、船と岸の間に板があって、その板をトントントントンっていわせながら自分の住んでるところに入っていくの。板が動くのがとても面白くてねぇ。──だから、そのときの川はそんなに綺麗じゃなかった。
 お台場までは20分くらい。飽きるほど船に乗ったという記憶もないし、そうかといってそんなに短くもないし、20分くらいだったんじゃないでしょうかねぇ。お台場は岩場だけで、とにかく岩がたくさんあったってことは記憶してます。最初は、泳ぐなんてものじゃないの、怖くて。岩にしがみついてた。
 海に行ったのは、それが初めて。海って広いなぁって感じた。岩にしがみついて、貝なんかいたかな、そんなのを見て、夕方潮が満ちてくると帰ってきたんです。そのときは、綺麗だなんてことより、とにかく広いなって感じましたね。この海が外国に通じてるんだなって。すごいワクワクしましたね。


多摩川は流れが速くて綺麗だった

 水着はね、毛糸でランニングみたいなの。御殿山小学校には当時からプールがあったから、小学校に入ったときに買わされて着てましたよ。ただ、子どもってのはどんどん成長するから、一年経つと窮屈になるのね。そうすると、うちの母親が作ってくれたの。その頃はお金はないし物資はないし、毎年毎年買ってもらえなかったの。古い防寒コートみたいな厚地のものを壊して、洒落た格子縞の水着を作ってくれました。それで学校へ行くと、そういう子どもが何人もいました。今だったらそんなことは絶対ないけど。そのことは思い出しますね。
 そんな水着を着てお台場に連れてってもらったのがきっかけで、私も泳ぎが好きになっちゃったの。小学生のときは友だち同士で多摩川でも泳ぎましたよ。こっちの岸から反対側の岸まで突っ切るわけ。多摩川は流れが速くて、綺麗だったですね。その頃は東京市かな東京府かな、神宮プールで開かれた水泳大会なんかにも出たし。戦争が始まってすぐに新潟に疎開しちゃったんですけど、新潟では信濃川でも泳ぎました。綺麗でね、流れが適当に速くてね。小さいときは、親は放任じゃないけど、「行ってらっしゃい。気をつけるんだよ」というくらいだったですね。あとは自分の責任だったからね。昔の子どものほうが危険だなって予知する能力があったんじゃないかしらねぇ。戦後、丸の内の会社に入ってもプールがあって(ラッキーだったですね)泳ぎを続け、いまだに泳いでいます。  トイレは、一時代前の普通の跨ぐタイプ。汲み取り式で、長い柄杓みたいなので桶に入れて、担いで車に運んでいました。そういう車が定期的に来てました。うちの母親が愛想のいい人でね。そういう人にも「ご苦労様です」「こんにちは」とか言ってね。愛想のいいおばちゃんで(笑)。それが嫌でね。そういう人に挨拶するっていいことよ、今考えたら。だけど、そのときは……(笑)。
 小学校の同窓会が毎年あるんですよ。みんなで目黒川の畔に行ったりするんですけど、目黒川は今はとても綺麗です。柳なんかあってね。戦前のポンポン船に乗ってたときはそんなに綺麗じゃなかったけど、今は生き生きしてます。
 戦後、新潟から帰ってきたときに川へ行ったの。川って何となく人をひきつけるのね。何も変わっていなかった。だけど、ずっと汚くなって、いつからか行かなくなったの。汚いから嫌になって行かなかったけど、最近は綺麗になった。とっても綺麗になった。

(月刊下水道2005年増刊号VOL.28 No.10)
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