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ある下水道課職員の一日 (2022/10/17)
第12話
BCP×「創作落語」
作・那須 基
 「ゼット係長、大丈夫ですか?」
 心配そうに係員のジェイ君が声をかけた。僕はエム補佐。エクス市の下水道課で課長補佐として働いている公務員だ。
 「いや逆に何か変? 全然大丈夫なんだけど?」
 鼻水をすすりながらぶっきらぼうに答えたゼット係長は僕の部下で、今日は休んでいる係員のケー君の上司にあたる。僕も、朝から喉に何か引っかかるように咳払いしているゼット係長のことが気になっていた。
 「ゼット係長。無理しないで、具合が悪ければ休んでください」
 ピンク基調の可愛い柄のマスクを着けたエー係長も、横から心配そうに声をかけた。マスクと口調は優しいが、目つきは非常に厳しい。今年は悪性の新型インフルエンザが全国で流行しており、市役所全体として感染症注意宣言が出されているのだ。
 特に、市民生活に多大な影響のある下水道の現場では、業務が継続できなくなる事態だけは避けなければならず、現下の状況においては、クラスターのように職場で新型インフルエンザを蔓延させることは許されない。
                              *
 「ご心配はありがたいけど、全然大丈夫ですよ?」
 鼻水をすすりながらなので全く説得力はないが、ゼット係長はエー係長に反論した。ゼット係長の机上には、喉の消毒用スプレーも置いてある。エー係長もジェイ君も同じ気持ちだと思うが、ケー君は発熱と咳があるそうで、新型インフルエンザを警戒して休んだのだ。まず職場の感染を疑う必要があるだろう。
 「ゼット係長」
 本来なら係長としての自覚を促し、自主的に休んでほしいところだが、こういう流れになると、僕も声をかけざるを得まい。
 「私からもお願いします。今日はもう休暇を取って早退してください」
 ゼット係長は、昼食時もガサゴソと袋から何かの錠剤を取り出して飲んでいた。ただのビタミン剤かもしれないが、普通に考えれば風邪薬だろう。それが気になったせいで、マヨネーズと唐辛子と醤油の合わせソースが絶妙な、妻のエヌ子特製のシーチキンたっぷり弁当を十分に味わうことができなかった。
                              *
 エクス市も他の自治体同様、下水道事業を含めて全庁的にBCP(業務継続計画)が策定されており、災害時や感染症などの非常事態における対応があらかじめ定められている。BCPにおいては、エス下水処理場の運転管理など市民生活に直結するような管理部門の業務を優先し、計画や工事などの事業部門は支援に回ることになっている。BCPの中で、ゼット係長のラインは支援に回ってもらう担当なので、初めから第一陣として無理をする必要はないのだ。
 しかし、ゼット係長は、
 「いや、本当に大丈夫ですけど?」
 と答え、僕の話に耳を貸す気配はなかった。実は今朝、聞くともなくゼット係長の電話の声を耳にしてしまい、僕は知ってしまっている。彼は今夜飲み会があって、おそらくそれが早退しがたい理由なのだ。
 「いやいや、君が大丈夫かどうかではなく、職場の感染が問題なんだ」
 僕が、そう声を荒らげて言おうとした途端だった。極力気を付けたつもりだったが、やはり僕の心の変化が大きかったのだろう。つい僕は、幽体離脱してしまった。子どもの頃から、僕は精神状態に大きな変化があると、瞬間的に気が遠くなるような感触に襲われ、同時に極端に冷静な人間になってしまうのだ。
                              *
 ―――――思い出せない。
 俺はこの幽体離脱状態になると、状況を古典落語に例えてしまうクセがあるが、今回もまたゼット係長を言い表す適当な古典落語を思い出せなかった。たしか、この間聞いた新作の創作落語に、こんな感じの噺があった気がするが……。
 しかし、俺は別の話を思い出していた。昔、エー係長が係員時代、コピー機が部全体で数台しかなく部で共有されていた時のことだ。その頃、コピーを取るのは若手の仕事で、コピー機の前で若い職員が列を成していたという。
 今は課ごとにコピー機があるので信じられないが、当時は不便だった代わりにこの待ち時間が貴重なものとなり、部内部で課の壁を越えたロマンスが多数育まれていたそうだ。
 エー係長の話とは少し違うが、俺にも似たような記憶がある。職場の同僚の男女が有給休暇を同時に取ることで職場内に噂が立ってしまい、その流れで秘密が公になってしまったのだ。大体の場合、休暇を巡っては何らかの事情があるものだ。ゼット係長もこんなに頑なに大丈夫と言い張るウラには、重要な事情があることは容易に察せられる。
                              *
 「エム補佐、どうかしましたか?」
 遠い目つきのまま押し黙っている俺を心配して、エー係長が声をかけてくれた。ゼット係長は何も感じていないようすで俺をじっと見ているが、こいつの言い分を聞く限り、俺の予想は確信へと変わっていく。
 だが肝心の落語のネタが思い出せないので、俺も今回はサゲを我慢せざるを得ないが、何かで落とさなければ俺の中では終われない。俺はドスの利いた低い声で言った。
 「ゼット係長。文句を付ける前に、マスクを着けてくれ」

【ちょっと一言】
 24時間365日休むことができない下水道施設。強い使命感を持って、その運転管理をされている方々には本当に頭が下がります。
 しかし、どんなに注意していても災害や感染症などによって十分な業務執行体制を執ることが困難になる事態に備える必要があります。そのために作成されるのがBCPで、想定される事態に応じて、事態の重大さに応じた段階的なステージ設定と、時間軸を想定して、人員確保や担当の割り振りなどをあらかじめ計画しておくものとなっています。
 今ではほとんどの自治体で作成されているものと思いますが、筆者もBCPを初めて作成した経験があり、最初はどのようなものにするか手探りでした。まず、実際に有事の際にどう動くかを議論して、その動きを整理することから始めたものです。
 その時に感じたのは、飲み会の幹事を務める時でもそうですが、まず担当者の連絡先をまとめ、関係者全員で共有するだけでBCPの原型になるということです。誰でも、有事の際にも飲み会の際にも、まず関係者と連絡を取るものですから。
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