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ある下水道課職員の一日 (2022/11/07)
第15話
債権回収×『抜け雀』
〜エム補佐の休日〜
作・那須 基
 僕はエム補佐。エクス市の下水道課で働く公務員だ。趣味と言えるほどのものではないが、学生時代に落語研究会、いわゆるオチ研に入っていたので、落語を観るのが好きだ。テレビの場合、落語は早朝に放送することが多く、そのために早起きすることもある。今朝の演目は『抜け雀』。名人に二代なしとか、東海道の旅をマクラにして演じられる噺だ。
 「……いや、この小田原と申す所はまことに風光明媚、名所古跡も多い所じゃ。四、五日と思ぉておるが、気に入ったら十日余りも滞在するかも知れん。あぁ、わしは食べ物のことはとやかくは申さんが、酒だけは良いのでないとおさまらんぞ。まずは旅のホコリを洗い流して一杯傾けたいが、先に酒を一升用意しておけ」
 噺は、東海道は小田原の宿場町に、身なりの貧相な一人の旅人が宿を所望するところから始まる。身なりを見るなり宿屋の女将が「怪しい。一文無しだ」と鋭く男の懐事情を見抜くが、人の良い主人は、なかなか男に宿代や酒代を払うよう言い出せない。だが、1日に1升5合も酒を飲む男に業を煮やした女将に、主人は強く言われてしまう。
 「……ちょっと、あんた。あのお客、どうする気? わたしの眼に間違いはない。金なんか持ってないわ、あれは。少しでもいいから勘定もらってきて。今日はもう五日目で、五日目ごとのお勘定をお願いしますと言っておいで」
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 僕はふと、市長の肝いりで先月から始まった債権回収プロジェクトを思い出した。アール市に限らず、多くの自治体は多額の不良債権を抱えている。特に市民税や国民保険料などが不良債権化しやすい代表的なものだが、実は下水道の受益者負担金や下水道使用料も不良債権となるケースが多い。アール市としても、これらの滞納を決め込む市民に、少しずつでも払ってもらうよう努力してきたが、市長はこれを短期的かつ計画的に解消するプロジェクトを立ち上げたのだ。
 「……ほぉ、なるほど。いや、もはや五泊いたしたか……、さようか。今日までの旅籠代、酒代しめて二両か。だがな、今はそれが、ない。しかし案ずるな。わしは絵師じゃ。支払いの代わりに質として、この衝立に何か描いてやろう」
 噺は続き、金のない男は、宿代と酒代の代わりに衝立に絵を描くという。筆と墨を手に取るや、一気に5羽の雀を描くと「決して衝立を売ってはならぬ」と言い残し、男は金を払わず出立してしまった。お代をもらい損ねたことで女将は怒り、夫婦は大ゲンカ。
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 僕はまた、ふと先日の債権回収の現場を思い出した。そもそも債権回収を行うのは、市長の意向で原則課長以上と決まっていたのに、ジー課長が僕を担当に指名して自分は嫌な仕事をやらないなんて、本当にひどい話だ。
 僕が受益者負担金の滞納を続けるお宅にお邪魔し、分納でも構わないから少しでも払ってほしいと丁寧にお願いしたところ、応対した世帯主がのらりくらりと要領を得ない言葉で話を逸らそうとしてきたのは、まるで落語と同じだ。ただ市役所の債権の場合、さすがに絵で納入することはできないが。
 「……次の日の朝、女将はふて寝で起きてこないので、主人は男が泊まっていた部屋に来て、雨戸をガラガラと開けます。朝日がサ〜ッと射し込んでくる、と『チュチュチュチュ、バタバタバタバタッ……』と衝立から雀が飛び出して雨戸から外に出ていきます。やがて、雀は部屋へ戻って来て、衝立の中にピタッと納まる」
 ありそうでなさそうなネタが多い落語のなかでは案外珍しい、完全にファンタジーなネタだ。絵に描いた雀が絵を抜け出して飛んで出る、なんてことがあるはずがないが、サゲに直結している部分なので変える訳にもいかないし、ある意味演者の見せ所かもしれない。
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 「……さぁ、えらいことになったもので、絵に描いた雀が抜けて出ると評判になり、やがて小田原の殿様が千両の値を付けるまでになった。宿屋の商売は大繁盛。そんなある日のこと、表から宿屋に入って来ましたのが六十を幾つか越したかというくらいの上品なお客です」
 ちっ。僕はまた、先日の別の債権回収の現場を思い出し、小さく舌打ちをした。僕の応対をしてくれた老人は、実際に下水道が整備されるのは7年以上先だと聞くと「わしはもうそんな先まで生きられねぇ」と受益者負担金の支払いを渋ったが、僕は「ルールですから」と冷たく滞納金の支払いを迫った。その腰の曲がった老人から見れば、僕は鬼のように感じられたのではないだろうか。抜け雀の主人のように、もっと柔軟に接することができなかっただろうか。
 そんな内省をしていると、僕は悄然とした。僕にはある種の特異体質があって、何か精神状態に変化があると、瞬間的に気が遠くなるような感触に襲われ、SFやオカルトで出てくる「幽体離脱」のようになる。同時に、自分を含めた辺りの景色が俯瞰的に見えるような感覚になる時があるのだが、今の状態はそれとは違うようだ。
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 「……抜け雀の絵は見せてもらえるかな? ふむ、やはり思ったとおり。亭主、この雀は死ぬぞ。飛び出すだけの力を持った雀なら、力が尽きたときには必ず落ちて死ぬ。わしがひと筆描き添えてやろう。……うむ、これでよい。これは鳥カゴじゃ。鳥カゴに止まり木が描いてある。羽を休める所があれば雀は死なん。これでよい、さらばじゃ」
 もし、先日の債権回収の際に幽体離脱が起きていたら、もっと柔軟に対応できないのかと、抜け雀に例えて自分を客観的に見つめてしまったかもしれないな。
 僕が、どこか他人事のような、半ば幽体離脱が起きたような気持ちで先日の現場を思い出しているうちにも、落語はクライマックスの、絵描きの男が宿屋を再訪する場面へと続いていく。
 「……亭主、久しぃのぉ。あの絵はまだあるか? 千両? それは結構、あの絵は改めて亭主に進呈する。む、何? 止まり木と鳥カゴ? すぐに、その絵を見せてもらいたい!……亭主、これをお描きになったのはわしの父上じゃ。……父上、かかることに心付かざりしとは、相変わらずの未熟者。父上のお諭しがなければ、慢心をいたすところでございました。不孝の罪は幾重にもお許しくださいますよう、お詫びを申し上げます」
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 最後の、親にカゴを描かせるくだりになる頃には、僕も気分が戻ってきた。本当に落語の持つリフレッシュ力はすごい。絵描きの男同様、僕も慢心することなく、引き続き債権回収業務に当たっては工夫を重ね、市民の事情に寄り添った対応を心がけようと思う。
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