月刊下水道
ホームページ内検索
検索
定期刊行物・書籍のお申し込み お問い合わせ
Home ニューズスポット フォト・ギャラリー 下水道関連書籍 月刊下水道について 環境新聞について
ゲスイダーズマガジン インデックスに戻る
ある下水道課職員の一日 (2022/08/15)
第3話
災害対応×『文七元結』
〜エム補佐の休日〜
作・那須 基
 僕はエム補佐。エクス市の下水道課で働く公務員だ。趣味と言えるほどのものではないが、学生時代に落語研究会、いわゆるオチ研に入っていたので、落語を観るのが好きだ。テレビの場合、落語は早朝に放送することが多く、そのために早起きすることもある。今朝の演目は『文七元結』。話の筋を思い出すだけで涙が出そうになる人情噺だ。
 「……このお久がおいおい泣きながら、親の恥を申しまして済みません、父が家へも帰らずバクチばかりで借財をこさえ、母とケンカするのを聞いていられませんと言うんだ。借財が片付いて、両親仲良く暮らしてほしいので、どうぞ私の身体をお買いなすって下さいと。親のために自分から来て身を売るような娘がそうある訳じゃあないよ」
 この吉原の女郎屋の女将のセリフが今の時代に全く合わないことは分かっているが、つい100年ほど前まで実在した場所であることを考えると、あながち架空の話とも思われないところが、身近な“あるある話”として落語に入りやすいポイントだろう。
                              *
 落語は、金を盗まれたと思い込み、橋から身を投げようとする大店の奉公人・文七を引き留める男のセリフに続いていく。文七を引き留める男は吉原に身を売ろうとしていた娘の父親だが、娘の決意を知って改心した後の場面だけに、娘を質に女将から借り受けた金を文七に差し出してしまう部分は意外でもあり、娘と同様に、他人のために自己犠牲を払う心情はお涙ポイントでもある。
 「……俺には親孝行な娘が一人あっての、今日吉原へ駆込んで、娘が身を質に都合してくれた金がここにある。これをお前にやろうと言ってるんだ。俺の娘は、死ぬ訳じゃねえが、金を盗まれたお前は橋から飛び込んで本当に死ぬと言うんだから、仕方ねえ。その代わり、俺が娘の身請けに行くまで、お前は娘が凶事なく達者でと、一生懸命祈ってくれ」
 僕は人情噺に弱いので、「そんなことしたら娘はどうなってしまうんだ」「だからアンタはダメなんだ」と心の中でツッコミながらも、自分だったら絶対にできない自己犠牲の行動には、涙がこぼれ、知らず知らずに男の幸せを願ってしまう。
                              *
 「……その折はうちの文七が大変なご迷惑をおかけしまして、お礼の言葉もありません。結局、金は文七がお屋敷へ忘れただけで、ほどなくお屋敷から金は届けられました。文七に事情を聞いてみると、橋から身を投げて詫びようとする処へ、あなた様が通ってお助けなすったという事ゆえ、こうしてお礼にまいりました。有難う存じます」
 大店の主人が文七とともに男の元を訪れ、男に事情を話す。さあ、感動のラストシーンに向けていよいよだと思い、涙を拭くための厚手のタオルを握りしめて、目に涙を貯めながらテレビを見ていると、突然、スマホの緊急地震警報がけたたましく鳴り響いた。
 「地震だ!」
 一瞬で涙が乾く。警報が鳴ってから少し間をおいて、ドーンと突き上げるような縦揺れが来た。
 「地震?」
 妻のエヌ子が寝室から寝ぼけた顔を覗かせて聞いてきた。
 「うん。結構強かったから登庁しないとならないかもしれない」
 「わかった。お疲れ様」
 エヌ子は顔を引っ込めてまた寝てしまった。
 エクス市では地震などの災害が発生すると、災害の規模によっては直ちに緊急体制が敷かれ、こんな休日だろうが早朝だろうが、担当職員はすぐ参集し、点検業務などを行うこととなっている。 仕事とはいえ、まさに自己犠牲の精神や命がけの気持ちがなければ災害対応はできないし、日頃から訓練を行い、いざという時の心構えができていなければ献身的な災害対応はできないだろう。
                              *
 テレビではすぐに地震の発生を知らせる緊急速報が流れ、震源地が比較的近いことを知った。震源地が近い割には、大きな揺れではなかった。もしかすると、非常参集が必要な状況ではないかも知れないと思いながら、落語と速報と交互に目をやった。
 「……貴方は見ず知らずの者へ、大金を下すって、お助けなさった。そのお志は実に尊い神様のようなお方だって、昨夜も番頭と貴方のお噂を致しました。封金のまま持って参りましたから、そっくりお手許へお返し申します」
 落語は進み、大店の主人が男に金を返す段になったところで、各地の震度が表示され、やはり思ったほどの大きさではないことが判明した。これなら下水処理場や管渠が破損することもないだろう。非常参集も必要ない。
                              *
 そして、噺はクライマックスへと続いていく。
「……文七は親も兄弟もないので、実に正道潔白な人間ですが、やはり暖簾を分けるには然るべき後見人が必要です。貴方のようなお方にぜひ後見人になって下されば、私はすぐに暖簾を分けてやってもいい」
 僕にはある種の特異体質があって、何か精神状態に変化があると、瞬間的に気が遠くなるような感触に襲われ、SFやオカルトで出てくる「幽体離脱」のように、同時に自分を含めた辺りの景色が俯瞰的に見えるような感覚になる時がある。そんな時の僕はクールに眉をひそめて、状況を落語に例えてしまうときがあるが、今日は何も起きないようだ。
                              *
 「……それでは、親子兄弟固めの杯を致しましょう。そろそろ肴も来ているだろう。 と言いながら障子を開けると、そこの駕籠から出たのはお久。服装も立派になって『お父さん帰って来たよ。この旦那様に身請けされて帰って来たよ。』さて文七とお久を夫婦に致し、主人が暖簾を分けて、文七元結の店を開いたというおめでたいお話でございます」
 地震速報で若干趣が削がれたが、エヌ子を起こさないように心の中で拍手をした。今日の文七元結も涙が流れるほど面白かった。涙のせいか、気持ちもリフレッシュできたし、休み明けのジー課長とのやり取りも頑張って耐えられそうだ。
定期刊行物
最新号の内容
次号予告
バックナンバー
ゲスイダーズマガジン
Adobe Readerダウンロード Adobe Reader
ダウンロード
PDFファイルの表示するにはフリーソフトAdobe Readerが必要です。
ご使用のコンピューターにインストールされていない場合は、Adobe社サイトよりダウンロードしてください。
サイトマッププライバシーポリシー広告のお申し込み
環境新聞社
(株)環境新聞社ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。
すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)Copyright2005 Kankyoshimbunsha,Co.,Ltd. All rights reserved.