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ある下水道課職員の一日 (2022/12/19)
第21話
現場研修×『目黒のさんま』
〜エム補佐の休日〜
作・那須 基
 僕はエム補佐。エクス市の下水道課で働く公務員だ。趣味と言えるほどのものではないが、学生時代に落語研究会、いわゆるオチ研に入っていたので、落語を観るのが好きだ。テレビの場合、落語は早朝に放送することが多く、そのために早起きすることもある。今朝の演目は『目黒のさんま』。さんまは目黒に限る、のオチが有名過ぎる噺だ。
 「……今日は良い天気であるのぅ。こんな日本晴れの日は遊山などに参ろうかの。そうじゃ、しばらく行っていないが下屋敷から程遠くもない、目黒に参ろうぞ。川あり、谷あり、紅葉も美しい。楽しみじゃ。これ誰かある。誰かある」
 ひとたび戦いとなれば寝る間もないだろうが、平和な時代はこの噺に出てくる殿様のように、のんびりした毎日を過ごしたのだろう。よく晴れた秋空に誘われた殿様が、目黒まで馬で遠乗りすることを思いつき、お城を飛び出してしまうところから噺は始まる。ひとりで飛び出した殿様にようやく追いついた家来衆に対して殿様は、今度は駆けっこを命じる。いつの時代にも、上司の理不尽な命令に苦労する部下はいるのだろう。
                              *
 その時、唐突にジー課長との先日のやり取りが脳裏にフラッシュバックした。
 「エム君。決裁で回ってきた現場研修だけど、一体何をしに行くんだっけ?」
 「課長。それはすでにご説明したと思いますが、国の機関が主催する研修ですよ」
 「管更生の新技術でしょ? でもさぁ、何も3人で行くことはないだろう」
 「せっかくの現場研修ですから、若手も連れて行きたいと思います」
 「でもさぁ、それならエーちゃんは留守番で良いでしょう? 私あてに、例のクレーマーから電話でもきたらどうするの?」
 そんなものは自分で対応してほしいと言いかけたところで、きっと腕にブツブツができるような気配を感じたのだろう、エー係長がいつものよく通る声で「あたしが留守番します!」と答えたのだった。
                              *
 いつの間にか、噺はさんまのくだりが始まっている。
 「……殿様は、遅れて着いた者に小言を言ううち、にわかに腹がグウと鳴った。空腹を覚えた殿様は、家来に弁当を所望するが、急な出立につき誰も弁当など用意できていない。その時、近くの家で焼いているさんまの匂いがプーンと漂ってきた。家来に、あれは何の匂いじゃとご下問になります」
 落語では、殿様は、下級民が食べる下魚のさんまなど見たことがなく、尋ねられた家来は、下々の者の呼び名でさんまと申し、丈は一尺ほどの細く光る魚で、これを近所で焼いている匂いだと詳細に答える流れになる。当時の殿様が食べる魚と言えば、足が早くて脂っこいさんまなどではなく、通常は鯛などの高級魚で、お毒見係が食べて無事だった後の冷めた焼き魚が多かったのだろう。
                              *
 しかし、脳裏でフラッシュバックは続く。
 この殿様の面白さは、身分は高いのに世間知らずで現場知らずであることだ。下水道も同様で、現場を知らずに何かを決めることは危険である。そのために、僕はなるべく多くの現場を見ることが大切だと思っている。
 それにしても、ジー課長の行動は本当に計り知れない。一度了解したことを後から撤回するなんて……。出張自体の可否ならまだしも、人数を3人から2人に絞れ、なんて細かい話、課長が撤回してまで判断するような内容か? 一応、現場研修そのものには理解があるようだが……。
                              *
 「……日は経って、殿様が親類のお宅に招かれることになりました。殿様は、お屋敷に着くなりまっすぐ厨房に向かい、料理番に、余はさんまが食したい、と所望したから大変です。当然厨房にはさんまの用意がありませんから、すぐ用意せねば! ということになりまして、当時日本橋にありました魚河岸に大急ぎで行ってまいりまして、最高に良いさんまを選りすぐりました」
 落語は最終盤のクライマックスに入ってきた。最高のさんまを前にして、料理番は考えるのだ。お客様のそれもお殿様に、こんな脂の強い魚を出して、万が一の事があっては大変と、新鮮なさんまを蒸して脂をすっかり落としてパッサパサにし、さらに骨が喉に刺さっては大変と、骨を全て抜いてしまう。噺によっては、丸めてお椀の具にしてしまうパターンもある。いずれにしても、殿様が口にできるのは、脂がジュージューの焼きたての美味しいさんまではないのだ。
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 僕の頭の中では、まだ先日の場面がぐるぐると回っている。
 この噺のように、周りの者が殿様に忖度しすぎて、殿様が望んでいないことをやって全体が台無しになるケースや、上司が無茶を言って部下が困惑するケースもあるが、いずれにしても僕の立場では部下を守り教育することが大事だ。殿様の家来なら、殿様の命令なら何でも従う必要があるかもしれないが、僕たち公務員はエクス市民のために働いているのであって、上司のために働いているつもりはない。
 僕にはある種の特異体質があって、何か精神状態に変化があると、瞬間的に気が遠くなるような感触に襲われ、SFやオカルトで出てくる「幽体離脱」のように、同時に自分を含めた辺りの景色が俯瞰的に見えるような感覚になる時がある――が、今日はそこまでいかないようだ。
                              *
 「……見た目から全く違うさんまを口に入れた殿様は、思わず家来にさんまの仕入れ先を尋ねます。家来が、日本橋の魚河岸にて求めた最高級品でございます、と答えるのに対して、殿様、『それはいかん、さんまは目黒に限る。』」
 うーむ。何度も聴いた噺でも、聞き手のシチュエーションによって受け止め方が変わるのも落語の面白いところだ。これまで目黒のさんまは世間知らずの殿様を揶揄する噺だと思っていたが、今日は上司に振り回される部下の哀愁を強く感じてしまった。
 明日からまた、ジー課長に振り回されることになるが、首を刎ねられない分、この殿様の家来よりはマシだろう。自分の立ち位置を大事にして、僕なりに頑張っていこうと思う。
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