ある下水道課職員の一日
(2022/08/29)
第5話
公用車×『権助提灯』
作・那須 基
「エム君。すまないが、この意見はおかしいとアイ課長に文句を言ってきてくれ」
声のトーンはさほど変わらないが、ジー課長はいつにも増して怒気を含んだような雰囲気で僕に命じた。僕はエム補佐。ここエクス市の下水道課に務めている。下水道課の日常は忙しい。忙しいが故に、つまらない業務で時間を潰すのは避けたいものだ。
「わかりました。おかしいとは、具体的に言うと数字のことでしょうか」
僕はジー課長に確認した。アイ課長に話しに行くのは今日3度目だ。ジー課長は細かすぎるほど細かいことに目が行ってしまうタイプだが、感情が高ぶると今度はどんどん具体性がなくなってしまうのが玉にキズなので、こうして具体的に聞くのが重要なのだ。
「違うよ。意見を締切り後に言ってくる態度がおかしいんだ」
なんだ、数字じゃなくて態度が問題なのか。じゃあ、もう課長同士で直接話してくださいよ、と喉元まで出たが、僕は持っていたボールペンの軸が折れそうになるほど強く握りしめてこらえ、アイ課長の席へ向かった。
アイ課長は建設部の総務課長で、名門大学を出て地元に戻り、エクス市役所に勤務している。女性の管理職は市役所全体でもまだ多くない中で、元々優秀とは言え、かなり努力をしてきたことだろう。事務職の大先輩なので、技術職の僕とはあまり仕事上での関わりはなかったが、うちの総務課長になってからの評判はすこぶる良い。しかし……。
「何をおっしゃりたいのか全くわかりません!!…と、ジー課長様にお伝えください」
アイ課長はにっこりしながら僕にやさしく答えてくれたが、目は笑っていない。理由は不明だが、なぜかアイ課長はジー課長と特に相性が悪いらしく、地元の高校の同窓で二つ違いのはずなのに、顔を合わせて話をするのも嫌だという噂だ。話をするのは電話でのみと、徹底しているらしい。僕としては先輩のジー課長が譲るべきだと言う気がするが、心の何かがそれを許さないのだろう。
*
僕は足取り重く、下水道課の部屋に戻り、ジー課長にアイ課長の言葉を伝えた。
「でもさぁ、これって明らかに悪いのは向こうだろ。そう思わないか?」
正直に言えば、本件は公用車の使用ルールを全庁的に統一して効率的に運用することになって、建設部もそれに従うだけの話であって、下水道課として反対するような話ではなく、ジー課長から細かい意見を出されてアイ課長も心外だろうと思う。
ところが、はじめは僕もジー課長の行き過ぎを抑えていたが、アイ課長に話が上がった途端、表面上は穏やかな二人が同時にヒートアップしたような流れだ。
「いえ。私は給油の目安が、燃料残量50%でも33%でも運用上影響ないと思います」
そんな僕の言葉が終わらないうちに、被せるようにジー課長は絡みついてきた。
「エム君。数字の話の前に、意見の締切りを守らないのが問題だろう」
あーあ、と僕は心の中でため息をついた。公用車の使用ルールの部内照会は総務課から行うものであって、ジー課長が逆質問して締切りを守らないと文句を言うのは筋違いも甚だしいが、やはり、どこかでジー課長の心の何かが許さないのだろう。
*
その時、終業時刻を告げるチャイムが鳴った。ほとんど仕事にならないまま今日が終わってしまったではないか。カッと頭に血が上った瞬間、僕はつい幽体離脱してしまった。僕は特異体質で、幽体離脱状態になると、気が遠くなるような不思議な感触のまま、自分を含めた辺りの景色が俯瞰的に感じるようになり、極めて第三者的な考えになってしまう。
*
―――――まるで落語の『権助提灯』だな。
『権助提灯』は、噺のスジもわかりやすく、コンパクトで手軽に楽しめる短い噺だ。
ある夜、大旦那が家へ帰ると妻が、風が強く妾宅が心配だから今夜はあちらにお泊りなさいと言う。昔は裕福な者は妾を囲う文化があったが、昔も今も人の気持ちは変わらないもので、本妻が妾を気にかけるはずがないと俺は思う。現代でも似たような環境の3人組は結構な数になるだろうが、妻が夫の浮気相手に心配りする話はまだ聞いたことがない。
本妻の見かけ上の気配りに感謝しながら、人のいい大旦那は妾宅へ向かうこととし、下男の権助に提灯を持たせる。妾宅に着くと、今度は妾が、本妻に済まないから今夜は帰るよう大旦那に言う。俺は、妾も本妻同様に、相手に気配りするはずがないと思う。
悋気は女の七つ道具、悋気は恋の命。女性に限らず人は嫉妬心を持つのが普通で、噺家によっては、この場面を、内面を隠し表面上は穏やかな女性たちを巧みに演じる。
結局、大旦那は権助に提灯を持たせて本宅と妾宅を何往復もしてしまうことになるが、シチュエーションは異なるとはいえ、決して仲良いはずのない二人に挟まれて間をうろうろする大旦那は、まさに今の俺だ。落語では、一見、羨ましい立場の大旦那も、本妻と妾の両方に気配りされているようでいて、二人の悋気に挟まれてうろうろしてしまうところで庶民の共感を得られるが、現実に挟まれている俺からすれば、たまったものではない。
*
「エム君、どうした。君も向こうが悪いと思うだろう……」
幽体離脱中で半分無意識状態の俺を見て、ジー課長が訝しみながら言いかけたが、俺はそれを手で制し、ドスの利いた低音口調でジー課長に言った。ジー課長には悪いが、ここでサゲなければ俺としては終われない。
「ご心配なく。もう勤務時間は明けました」
【ちょっと一言】
下水道事業の現場では公用車が欠かせません。平時には路面のマンホールを巡回監視したり、現場に機材を積んで向かったり、災害時には、被災個所を確認したりと、車がなくては事業ができないと言っても過言ではありません。
ところが、下水道事業にとって車はかなり高価な消耗品であり、通常の維持管理費として車を購入するためには、しっかりとした購入計画に基づいて実施しなければならない自治体が多いと思います。
そのため、車を大切にするあまり、使い勝手が悪いルールを作ってしまう場合があり、筆者の実体験としても、給油するための手続きがやたら煩雑で、たまに自分が給油するハメになると、あー面倒くさ、となってしまったということがあります。
そのような中で、筆者は電気自動車の普及に注目しています。これなら、車庫で常時充電しておけるし、もし災害での停電時に直接マンホールポンプなどの電源として利用できれば、下水道事業における車の重要性はさらに増すのではないでしょうか。
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