ある下水道課職員の一日
(2022/09/12)
第7話
ネーミング×『道具屋』
作・那須 基
僕はエム補佐。エクス市の下水道課に勤める公務員だ。エクス市では、下水道課は建設部に属しており、主な土木関係の部署はすべて建設部に集まっている。
建設部長のビーさんはとても優秀な人で、技術系の副市長からも一目置かれるくらい仕事ができる人だ。性格はジー課長と真逆で、細かいことにこだわらず、前向きでユーモアもあるタイプだが、いわゆるスーパー公務員的な面があり、部下にも能力以上のものを求めるのが玉にキズではある。
ある日の昼休み、僕はいつものように妻のエヌ子が作ったお弁当箱を開いた。今日のお弁当は炊き立てのご飯にカツオ節をたっぷり敷き詰め、しょうゆをかけて海苔を乗せた特製ノリ弁だ。チューブ入りしょうがをさっと絞ってあるのがアクセントで、冷めてもとても美味しいのが嬉しい。
*
プルルルル……。
心の中で手を合わせて、エヌ子に感謝して、大好物のお弁当に箸をつけようとした途端に、僕の机の電話が鳴った。電話の相手は総務課の部長担当者で、緊急にビー部長がお呼びですとのことなので、箸を置き、お弁当箱のふたを閉じてすぐ部長室に向かった。
「失礼します。下水道課のエムです。御用とのことでしたので参りました」
「おーエム君か。いやあ退屈だから雑談でもしようかと思ってさ」
僕はビーさんのことは嫌いではないが、思いもよらない話題を振られたり、冗談が過ぎる傾向があったりするので、今が昼休みじゃなかったら理由を付けて速攻で退室するところだが、ぐっとこらえて、無言のままビー部長の次の言葉を待った。
「エム君。実は僕は下水道のことがよくわからなくてね。ジー君はちょっとあれだろ、まじめすぎるだろ。エム君くらいの中堅諸君に聞いてみようと思ってさ」
ジー課長がまじめというのは、ビー部長得意の冗談だと思うが、もしかすると地元が同じとか高校が同じとか、意外なつながりがあって仲が良いのかもしれない。確か、総務課長のアイさんもジー課長と高校は同窓だったはず。僕は心の中でビー部長の人物関係に要注意、とマークした。
「ありがとうございます。それで、下水道のどのようなことがご不明でしょうか」
僕は頭に浮かんだ色々なことをスルーし、ビー部長に先を促した。
*
「下水道って名前さ、イメージが悪いと思わないかい?」
シンプルに来た。まったくその通りだと思っているが、法律で決まっていますからなどと返すと、地方が国の言いなりになっちゃダメだ、お前が変えていけ、となるに違いない。
「……なるほど。そのとおりだと思います」
僕は部長の腹の中を探りながら、当たり障りのない答えをした。
「だいたいさ、濁音が付くのが良くないんだよ。一文字目が『げ』、なんてさ」
「そうですよね。ですから、うちのエス下水処理場は、一般的には水再生センターと呼ぶようにしていますよ」
どうやら、ビー部長の言いぶりから切迫感は感じられない。本当にただの雑談で、腹の中には何もない、ということも考えられるが、念には念を入れるに越したことはない。
「水再生センターねぇ。いや、僕は別に下水という名前は意味がはっきりしていて、これはこれでアリだと思ってるんだよ」
じゃあどうしろと言うんだ? と喉元まで出かかった声を必死で抑えて、僕は答えた。
「そう言えば、道路も濁音で始まるのに、イメージがそんなに悪くないですね」
ビー部長は土木の中でも道路の経験が長い。ここは道路の話でかわせるかもしれない。
「おおー、確かにそうだな。『ど』の字はいいけど、『げ』の字はだめなのか」
よし、良い流れだ。僕はさらに布石を打った。
「それに、ビーさんも、うちのジー課長も名前に濁音が付きますよ」
すると、ビー部長は露骨なしかめ面をして、
「おいおい、僕とジー君を一緒にするなよ」
と言った。この言い方は、ビー部長とジー課長との個人的なつながりはないように聞こえる。僕はほっとして、さっき心の中にマークした要注意の文字を取り消した。
*
そして、ほっとしたその瞬間、いつものように僕は幽体離脱してしまった。
―――――まるで落語の『道具屋』だな。
『道具屋』の噺では、親戚から「何か商売でもやってみろ」と言われた男が道具屋を始め、トンチンカンなやり取りに終始する滑稽噺だ。
鋸を見た客から焼きが甘いと指摘されると、火事場で拾った鋸だから問題ないと言い、股引を見ている客にこれは小便(冷やかしの意味)できませんと言うなど、客を怒らせたり呆れさせたりするばかりで、まったく客から相手にされず商売にならない。
最後には、短刀を見て気に入った客が刀身を抜こうとするがなかなか抜けず、男は平気な顔で「これは木刀です」と言ってしまう。『道具屋』の噺では、冒頭に「ど」の付く仕事の話が出てくる。泥棒ではなく道具屋だとなるのだが、「ど」の付く仕事なんて、まさに土木で道路が専門のビー部長のことではないか。
*
俺は『道具屋』の噺を思い出し、普段クールな俺もつい笑ってしまった。いつものドスの利いた声も出てこない。
「ビーさんの発想は面白いですね。また話を聞かせてください」
俺は食べかけの弁当を早く食べたいのだ。こんな所で時間を潰す余裕はない。
「いや、すまなかった。『ど』だの、『げ』だの、落語みたいなやり取りだったな」
え? 俺はビー部長の顔をまじまじと見つめた。部長はニコニコしている。部長室を辞去し、俺は席に戻るとエヌ子の作ったお弁当箱を開いた。
すっかり部長の雑談に付き合わされたが、部長が満足されたならそれでよい。それよりも、部長は案外落語好きなのか? それでオチ研出身の俺を呼んだのだろうか。
「いやいや。おひな様の首じゃないが、まったく気が抜けないな」
特製ノリ弁を頬張りながら、俺は小さく首を振り、自分でサゲた。
【ちょっと一言】
下水道。私たち下水道関係者からするとおなじみすぎる言葉ですが、一般的にはどちらかと言えばきれいなイメージは持たれにくい言葉ですよね。下水道がなければ人々の生活や水環境がどうなってしまうのか、という正論もわかるのですが、それでも言葉の持つイメージは大事であり、そこから派生するさまざまな事柄に影響を当たることさえもあります。
名前については、最初に下水道と名付けたことが原因と言えるのかもしれませんが、下水道がどうして下水道と呼ばれるかと言えば、下水道法の中で用語として決まっているから、と考えている人が多いと思います。
筆者も以前、下水道に代わる名前と言うのを数人のグループで検討したことがありますが、良いセンの案は出るものの、結局は下水道を上回る名前を見つけることはできませんでした。
ちなみに、下水処理場は下水道法では「終末処理場」と呼ばれていますが、誰もそんな名前で呼びませんよね(笑)
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